まだ暑さの残る季節。少年は夕日を背中にうけ腫れた頬に手を当て、痛みに眉をひそめながら自宅への道のりをトボトボと歩いていた。  ―――いつもそうだ。  少年は今度もいじめから助けることができなかった友人の顔を思い出しながら、自分の中途半端な正義感と非力さに心の中でそっとため息をつく  ―――自分に力があれば。  少し考えて、瞬時にそんなことを考えた自分に嫌気が差した。強くなったって何も変わらない。弱者をいたぶるという行為は人にとって酒やタバコや麻薬とそう変わりない。誰かを止めてもまた新しい誰かが病みつきになる。法律で禁じようが、先生に注意されようが同じなのだ。誰もその大きな波を食い止めるなんてことなんて出来ない。ましてや何の力も持たない非力な自分が無理に立ち向かおうとしたら、逆にその波に飲み込まれてしまうだけだ。  少年はどうしたら良いのか、いったい何が「正解」なのかとなかなか前に進もうとしない足と一緒に考えていた。  でも少年には、霞がかかっていて不透明ではあるが「正解」がわかっていた。けれども、それを口に出す勇気と、あきらめさえも少年には備わっていなかった。だから少年は内側にそっとつぶやいた。 ―――気づかなかったことにすれば。  汚いことだと思う。道徳的にはもっともいけないことなのだと思う。でもそれが何だというのだ。大人の振りかざすきれいな教科書通りに人は生きていけない。それをわかっていながら、 大人は子供の目の前にそれを振りかざすのだ。普通に生きろ、きれいに生きろと。  そんなことを考えているうちに、少年の出した答えはだんだんと明瞭になっていった。 ―――目を瞑ってしまおう。  そう考えてしまったら急に肩がストンと軽くなって、今まで自分が必死に背負ってきた大切なものを降ろしてしまったような気がした。それから鼻がツンとして、目からぶわっと涙が溢れ出た。腕で拭っても、また拭っても、少年の涙は止まる気配をみせなかった。 すれ違う人が好奇心を含めた濁った眼差しで少年を見て、そして何事もなかったように通り過ぎていく。一人だけどうしたのと声をかけてくる人も居たがその人の顔は少年を心配している様子もなく、弱者を助ける自分に酔いしれている顔をしていた。 少年は急に駆け出した。自分も誰かを助けるときにあんな顔をしていたのだろうか。そう考えると自分はすでに先ほどすれ違った人たちと同類なのかもしれないと思った。だからそんな現実に気づかないように、追いつかれないように少年はぎしぎしと軋む膝を引きずりながら、少年は必死に、ただ必死に逃げ回った。 ふと気がつくと、小さな公園の入り口に立っていた。この公園は知っているけど入ったことがないなと少年は思った。少し公園に入ってみてあたりを見渡すとまったく人気はがなかった。 うつむいて、少年は自分よりも大きくなった真っ黒な自分を地面に発見し、それを追いかけるようにトボトボとまた歩き始めた。 「助けが必要か?」  唐突に少年の目の前から声がした。その声はしわがれているけど芯の通った力強い声だった。少年は顔を上げ声の主を見上げた。  声の主は老人だった。背丈は少年よりも頭一個分くらい大きく、白髪は丁寧に後ろに撫で付けられていて、目は真っ黒に深く澄んで、思わずじっと見つめてしまう暖かい光を放っていた。  今の時代は、見知らない人に話しかけられたらまず警戒するべきと家庭でも学校でも最初に教えることだ。当然少年にもその教育は施されている、でも少年の目の前にいる老人はどこか 危険という感じはせずこういうと失礼に当たるのかもしれないが、いい意味で自分と同じ子供みたいな雰囲気がするように思えた。だから少年は今まですれ違ってきた大人よりも今自分の目の前にいる老人のほうが信用できるような気がした。その親近感は、少年に今まで胸につかえてなかなか振り落とせなかった、たった一言の思いをこの老人に打ち明けてみようという思いを奮い起こさせた。 「あきらめたくない!」  自分で言って、びっくりするくらいの大きな声で叫んでいた。言ったとたんに、なんだか恥ずかしくなってしまって少年は顔をうつむけた。 老人は一瞬面食らったような顔をして、すぐに唇の端を吊り上げいたずらっぽく笑いながら「そうか」と言った。 少年はその顔を見てやっぱりその老人は子供だと再確認した。あの顔は大人がそうできる顔ではない。自分の思ったままに行動する子供が、自分の好きなものを目の前にしたときの顔だ。 「あきらめたくないなら、あきらめなきゃいい」  少年は老人の予想以上に普通の答えにガックリと肩を落とし公園の出口へ向かおうとした。 「まあ、待て。なぜお前はあきらめなきゃいけないんだ?」 「自分じゃどうにもできないから」少年は立ち止まり老人のほうを振り返り目をそらしながら言った。 「少年。人はあきらめたら何もできないぞ」 「そんなこと分かってるよ。分かっているけど僕にはもうなにもできることがないんだ、だからあきらめるしかないじゃないか」最後のほうは鼻声になりながら苦しそうにはき出した。 「少年、勘違いをしてないか?何かを変えようと思って行動するまえに、まずは自分が変われ。自分も変えられないやつに何かを変えたいなんて思う資格なんてないんだ。」  少年は老人の言葉を受けて、確かに何かを変えたいと思うことはあっても、自分を変えようとは考えもしなかった。 「でもどうやって変わればいいのか分からないよ。」 「確かにそんな簡単に人は変われるものじゃないな。でも意外と、変化のきっかけはそこいらぢゅうに散らばっているのさ」老人はゆったりとした歩みで公園に備え付けられているベンチに腰掛けた。少年も老人のあとにベンチに座った。 「変化のきっかけ?」 「ところで少年、まだ答えを聞いていなかったなあ。」老人はまっすぐに少年の目を見つめながら「助けは必要か?」と静かに言った。 少年は老人のまっすぐな目に少したじろいで、それでも老人の視線を正面から受け止めながら「うん!僕は変わりたい、助けたいんだ。」 老人は心底楽しそうにニカっと笑いながら「そうか」と言った。 「古きを知り新しきを知る。少年、これは何かを学ぶための基礎だ。だから君には昔話をしよう。」 「それが変化のきっかけ?」少年は首をかしげながら老人に尋ねた。 「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。すべては結果に任せるしかないんだ。」  少年は、果たしてこの老人を信じてよいのか悪いのか分からなくなってきていた。でも『すべては結果に任せるしかない』という適当さが、少年には、なんだか心地良いような気がした。 「そんな胡散臭そうな目で見るなよ。それじゃあいくぞ。昔話って言ってもそんなに昔のことってわけでもない。少年にとってはけっこう昔のことになるのかもしれんが、俺にはつい最近のことのように感じられる。その頃の子供の、将来の職業は、みんな親の職業を継いでいた。先生の息子は先生に、代議士の息子は代議士に、ケーキ屋の息子ならケーキ屋に、といった風に。その頃は例えるなら夢がない時代といってもいいかもしれない。そんな時代に一人の少年がいた。その子はパン屋の息子として生まれた。そしてその子の夢はロックンローラーになることだった」